内堀雅雄 | 佐藤雄平 | 佐藤栄佐久 | 松平勇雄 | 木村守江 | 佐藤善一郎 | 大竹作摩 | 石原幹市郎 |

人物 説明・評価・評判

内堀雅雄

(うちぼり・まさお)

2014年11月~
※3期目

■前職:
官僚

50歳~

8人目

福島県の副知事時代、佐藤雄平知事が建設受け入れを表明した中間貯蔵施設をめぐる政府との交渉では、陣頭指揮を執った。冷静沈着な行政マンとの評判だった。

長野県出身。幼少から電子オルガンやバイオリン、合唱に親しみ、音楽少年として育った。大学に進み「ちょっと変わりたいな」と選んだのが合気道部。きつい稽古に耐え、自信が持てるようになった。腕前は3段。

大学卒業後は「各地域を元気にしたい」と自治省(現総務省)へ。福島に出向した2001年から先月に立候補を表明するまで、県の部長や副知事を務めた。

趣味は音楽鑑賞。朝はへビーメタルやハードロックで目を覚ます。サッカーJ3の福島ユナイテッドFCの試合では客席からピッチに大声を上げ、ストレスを解消していた。

座右の銘は「進取果敢」。気概がなければ復興は絶対に成し遂げられない、という考え。

2014年に初当選。東日本大震災からの復興の推進や被災者の生活再建など課題が山積する中、佐藤知事を支えてきた行政手腕に期待が集まった。内堀氏は、退任する佐藤知事が事実上、後継者としている。「復興に与野党はない」として、大半の政党や自治体首長、業界団体などが続々と支援に加わった。官僚出身で政治色は薄く、副知事などとして10年以上、県政の中枢におり、行政手腕が期待できる。相乗りしやすい条件がそろっており、幅広い県民の支持を引き寄せて、他の候補と大差をつける形となった。

震災後初の知事選だったが、与野党相乗りや深まらない政策論争に関心は高まらず、投票率は過去最低だった2010年の前回選挙を3.43ポイント上回る45.85%にとどまった。

佐藤雄平

(さとう・ゆうへい)

2006年11月~2014年11月
※2期

■前職:
厚生大臣秘書官、衆議院議員秘書、参議院議員

58~66歳

7人目

下郷町出身。田島高校、神奈川大学経済学部卒。大学4年生だった1969年、衆院に初当選した叔父の渡部恒三氏(会津若松市)の秘書となり、30年近くも務めた。この間、厚生大臣秘書官を務めた。

1998年に参院福島選挙区に立候補し、連続2回当選。参院沖縄・北方問題特別委員長、参院国土交通委員会理事、参院予算委員会筆頭理事などを歴任。

参院の2期目途中の2006年の知事選で初当選を果たした。民主、社民両党の推薦を受けた。

2010年に再選された。民主、自民、公明、社民各党の支援を受けた。共産党公認の新人佐藤克朗氏に大差をつけた。

東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生後、国と被災市町村の間で対応に当たった。

復興に向けて県をけん引した。県復興計画を踏まえ、2012年に県総合計画を策定し、復興の方向性を示した。

2014年9月4日、福島市内のホテルで連合後援会から立候補の要請を受けた。退任の意向を示したが、出席者からは続投を求める声が相次いだ。既に立候補を求められていた民主、社民両党県連、県議有志、連合福島の代表で構成する「四者協議会」に対しても、立候補しないことを伝えた。

座右の銘は「至誠通天」。趣味は合唱と読書。

「大内宿」で知られる福島県下郷町生まれ。実家はみそ・しょうゆ醸造と特定郵便局を営む。田島高校や大学で合唱部に所属し、国会でもコーラスサークルに入っていた。公務でもたびたび、気持ちよさそうに歌う。

妻は裕子(ひろこ)さん。子供は2男1女。

佐藤栄佐久

(さとう・えいさく)

1988年9月~2006年9月
※5期途中で辞職

■前職:
参議院議員

49~67歳

6人目

元参院議員。

松平の後継指名を受けた。元建設官僚と争った。自民党の分裂選挙だった。前知事の継承を公約に初当選を果たした。

福島空港の開港、県立会津大学開校といった県のビッグプロジェクトは、ともに佐藤県政2期目の平成5年に結実した。

国際定期便の就航、大学院設置など、自ら付け加えた実績もあるが、いずれも松平県政時代にレールが敷かれた事業だった。

「周囲に目配りして、じっくりと時代を読み、慎重に判断するタイプ」という評判だった。

「腹の中が読めない」「理念だけで取り組みが遅い」などの評価もあった。

昭和63年9月の激しい保守分裂選挙を勝ち抜き、初当選。その後、平成4年、8年の知事選で80万票を超える圧倒的な県民の支持を獲得、安定政権を築いた。

松平勇雄

(まつだいら・いさお)

1976年9月~1988年9月
※3期

■前職:
三菱商事社員、鉄鋼会社社長、参議院議員

69~81歳

5人目

会津藩主・松平容保の孫で元参院議員。社会党などとの保革対決となったが、清潔なイメージを強調した松平が接戦を制した。

高度成長が一段落し、全国で文化施設の建設が相次いだこの時期、松平も県立図書館や美術館、博物館を相次いでオープンさせた。

『文化知事』と呼ばれた。

3期で勇退した。

木村守江

(きむら・もりえ)

1964年5月~1976年8月
※4期途中で辞職

■前職:
医学博士、開業医、参議院議員

64~76歳

4人目

現在のいわき市に生まれ、医師から県議、参院議員、衆院議員を経て知事に当選。四選を果たし、全国知事会長にも就任するなど、「木村王国」と呼ばれる実力者ぶりを発揮した。

木村は県内道路の舗装化を一気に押し進めた。福島の社会資本のレベルを上げたという意味では、『道路知事』と言える。

カリスマ性があった。

逮捕を招いた県政汚職事件は、盤石な与党態勢を誇った知事4期目に発覚した。

佐藤善一郎

(さとう・ぜんいちろう)

1957年8月~1964年3月
※2期途中で死去

■前職:
福島市清水町町長、衆議院議員

59~66歳

3人目

衆院議員。自民を離党して社会党などと共闘した。

自民公認で元労働事務次官の斎藤邦吉を1万票足らずの小差で破り、当選を果たした。

現在の福島市の農家の生まれ。観光の目玉として磐梯吾妻スカイラインを開通させ、県財政の再建にも尽力するが、1964年、2期目の途中で病死した。

大竹作摩

(おおたけ・さくま)

1950年1月~1957年7月
※2期途中で辞職

■前職:
北塩原村村議、福島県議

55~62歳

2人目

北塩原村出身。県議会議長だった。庶民派で「今太閤」とも呼ばれた。

いかにも官僚出身らしくて手堅い石原とは対照的に、農民出身で野性味にあふれていた。

只見川のダム建設では、ダム湖の底に沈む農家を一軒一軒訪ね、ひざを突き合わせて説得して回った。

再選を果たした後、1957年、病気で辞任。

石原幹市郎

(いしはら・かんいちろう)

1947年4月~1949年11月
※1期途中で辞職

■前職:
官僚

44~46歳

1人目

1946年に官選で赴任した石原幹市郎が初代の公選知事に選ばれたのは、翌1947年4月。岡山県生まれで内務官僚出身の石原は、終戦直後の食糧難解消に力を注いだ。

1949年、参院選出馬のため任期半ばで辞任。